山岡 鉄太郎 Yamaoka Tetsutarou
1836〜1888年 
幕臣 
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幕末三舟
山岡鉄舟としての名の方が広く知られているかもしれない、勝海舟、そして義兄であり槍の達人と言われたが高橋泥舟であり、三人を称して幕末三舟と呼ばれている。(とりあえず、このページで山岡鉄太郎で統一します)

山岡家を継ぐ
小野家の五男として生まれる、父の代に飛騨高山の郡代に任じられ、幼少期は飛騨高山で過ごすことになる。この期に高山の僧に書を教わり極めたらしい。父、母が早くに他界したため兄弟5人を引き連れて江戸の戻ったという。
江戸に戻ると鉄太郎は兄弟を養子に入れ、自らも義兄の小野磯三郎の世話になる。同時に剣術は北辰一刀流の千葉道場に通い、槍は山岡静山という人物に習う。この静山という人物は高橋泥舟の兄であり槍の達人である以上に人格者であったと言われ、鉄太郎も非常に慕ったという、しかし静山は27歳の若さで他界してしまう。このとき鉄太郎は20歳、山岡家には弟の泥舟がいたが既に高橋家の養子に入っていた。山岡家のたっての願いもあり静山の妹、英と婚姻し山岡家を継いだ。ここに山岡鉄太郎が誕生した。

浪士隊
24歳の頃、清河八郎と親交を深め尊王攘夷思想を強めていく、 浪士隊の取締役となり上洛するが清河の策謀が済むとすぐに帰府。(浪士隊の一部は京に残留し新撰組となった)

精鋭隊
1868年正月に起こった鳥羽伏見の戦いの後、慶喜警護と江戸市中警護を行う精鋭隊を結成した高橋泥舟に加わる。そして勝先生は陸軍総裁となって徳川家を和平・恭順の方向に舵をきらねばなならない。官軍の大将は西郷隆盛であり勝先生は京都で謁見した際に幕府はもうダメだと言った相手である。
面会したのは一度きりだが知古の中とも言える西郷隆盛が東征軍の大将だ。江戸総攻撃の音頭をとる責任者でもある西郷に、勝先生は使者を出して直接談判に持ち込むつもりだった。しかしそう簡単に謁見できる相手ではない。使者もそれなりの覚悟を持って事態に当たる事ができる人物が必要であった。そこで、高橋泥舟の推薦もあり山岡鉄太郎の名がでてくるのである。

いざ西軍本陣へ
1868年3月5日 勝先生は山岡を呼び寄せ面会する。鉄太郎33歳、勝先生46歳、これが初対面である。山岡の人物を見込んだ勝先生は、翌日には江戸開城の意思を伝える大任を帯びて江戸を出発させる。
この大任を頼んだ人物は誰だったか?実際はよくわかっていないという。謹慎中の慶喜公の意思を高橋泥舟が汲んで義弟の鉄太郎を推挙し、勝先生が最終的に決定したのか・・・。いずれにせよ、勝先生は益満休之助という薩摩人を共につけさせる。益満の助けもあり鉄太郎は無事に西郷のいる大本営に到着することができたと言われる。

至誠に曇りなし
勝先生の書状を受け取った西郷もさぞ悩んであろう、西郷も官軍の大将としてやすやす和平を結ぶわけにはいかない。それ以前に政治的かけひき効果があった。西郷は和平の条件として兵を解散させろとか、武器・軍艦を差し出せなどの要求(5か条を)突き付けてきた。
鉄太郎にその要求書の項目に対し談判する資格はなかったが、ただ一点このまま引き下がれない項目があった。慶喜の備前藩お預かりである。つまり大将を敵陣に差し出せということである。徳川家臣としてこの項目だけは納得できずとして頑として批判する、「立場が逆なら西郷さん!あなたはこの項目を飲めますか?」と詰め寄り、とうとう西郷もこの項目は己一人の責任でなんとかすると承諾させてしまった。
あとは勝先生の仕事である。山岡鉄太郎の至誠が江戸開城をスムーズに進めたと言っても過言ではないかもおしれない。

山岡鉄舟
明治に入ると、山岡は駿府藩の権大参事を努め、後に推薦され明治天皇の補佐役(侍従)となり大変あな新任を受ける。しかし明治21年(1888)胃癌により逝去する、最後は座禅の組んだままだったという。葬式にさいて勝先生は色々世話を焼いたらしい。徳川瓦解を紙一重ですくった同志という情もあっただろう。
五十三歳だった。同年に大久保一翁も逝去し、徳川幕府の幕引きを演じた二大役者がいなくなってしまった。勝先生も感慨に浸ったことだろう。
氷川清話では勝先生はこう残している。
「山岡鉄舟も、大久保一翁も、共に熱性で、切迫の方だったから、可愛そうに早く死んだヨ。おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのサ」


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