咸臨丸渡米-2 トップページへ戻る

米国人の同船
渡米計画が決まったものの、日本人だけでは心もとないと考えた人達がいた。これは木村喜毅だと言われている、勝先生はもちろん大反対である、日本人のみで太平洋横断することで米国人に日本人の優秀さをみせつけてやるのだから。伝習生の多くも同じ気持ちだっただろう。
そんな思いは無視され、横浜に居留中の米国軍人ジョン・ブルック以下10名の米国人水兵の乗船が決まった。

ブルックが見た日本の船乗り
「日本人はみな無能だ」これがブルックの日本人に対する航海当初の印象だったそうだ。しかし、そうまで言わしめた大きな理由の一つに文化の違いを感じずにはいられない、咸臨丸の人事において、一番優先されるのはまず幕臣であることは先に述べた。つまり船上においても武士社会の論理はそのままであったことが生粋の海軍軍人のブルックには理解できない。
合理的主義の米国人ブルックにとって、船上においても武士社会の論理を最優先し、「士官達は自ら働かず水夫を部下のように扱うだけだ」と日本人士官達の体たらくぶりを批判した。ブルックの批判は最高責任者の木村喜毅に向けられるのであるが、木村に人事権は許されていない、木村もこの時点で身分を無視した命令を発令できる状況ではない、身分の低い勝先生はなおさらである。


ジョン・ブリック
米国軍人、測量船フェニモア・クーパー号の艦長、日本近海を測量中、台風にあって船が難破。幕府保護のもと、横浜に滞在した。
咸臨丸渡米計画で同船し、航海を助ける。サンフランシスコに到着後も、咸臨丸の補修費用を米国側に依頼するなど、本隊の歓迎準備にも尽力した。

大混乱の咸臨丸
未曾有の大冒険航海であった筈だが、出発前に既に指揮系統が崩れつつある咸臨丸せあった。ともあれ不安を抱えたまま1860年(万延元年)一月十三日、咸臨丸は品川を出発し、米国サンフランシスコ港へ向けて太平洋横断の大航海が始まった。
ブッルク大尉以下11名の米国水兵は、水先案内人として乗船し、指導員的立場で咸臨丸の運行を見守るつもりだったであろう。つまり自分たちはゲストである筈であった。しかし、ブルックにはこの時点では見抜けなかった彼らの「しきたり」に苦労させられるのである。

欠落していた航海術
勝先生ら長崎伝習生はオランダ教官より航海術を学び、日本近海であれば問題なく航海できる程度の技術は身につけていた。実際、横浜でブルックを乗船させ浦賀まで咸臨丸を操舵してみせている。
しかし長崎伝習所の操練は夜間、荒天時は航海は避けていたと言われ、日本人士官達及び水夫達は外海における全天候航海の経験がなかったのである。(水夫の多くは塩飽諸島の出身の者が多く、彼らは天候の良い日を選んで航海する事を長年続けたきたので、操練所おいてもその論理で荒天時の操練は渋っていた)
下士官である水夫達が動かなければ上官となる士官達も更に動かない。当然、荒天時や夜間の経験は浅いため、外海に出ると日本人のほとんどが酷い船酔いとなり使い物にならなくなってしまったらしい。勝先生にしても、出発前の激務により発熱していた上に船酔いに見舞われ、何度か吐血し寝込んでしまったというから、もはや船内に規律はなくなっていた事は想像に容易い。

ブルックの奮戦
ブルック大尉以下米国水兵は、もはや咸臨丸運行の中心にならざるおえなかった。ブルック大尉は通訳の中浜万次郎と船酔いから回復した小杉雅之進ら一部の士官達と水夫達を指揮して、荒天に揉まれる咸臨丸を運行することになった。現代でも、外洋航海を経験する者のほとんどが船酔いに悩まされると言うが、それでも2週間もすればだいたいの者は回復すると言われている。
咸臨丸でも日を追うごとに回復者が増えたであろうが、それがまた新たな問題の引き金を引く。
航海中の船上で火の取り扱いは今も昔も非常に慎重にならなければならない。海上で火災が発生すれば大惨事になることは必死だからである。しかし、水夫達や士官達は寒いと各自の火鉢で火を起こし暖をとったり、茶を涌かし飲む、煙管でタバコを吸う等、火に対して非常に無神経であることをブルックは驚いている。咸臨丸は航海中に2度も小火騒ぎを起こしている。そのうちの一度はサンフランシスコ到着後であったが、福沢諭吉が自室で茶を涌かそうとして起こした危うく咸臨丸を全焼させてしまう程だったらしい。

咸臨丸の海舟

咸臨丸がサンフランシスコへ到着する日数は37日である。勝先生も航海半ばには体調もだいぶ良くなっていた筈であるが、部屋に閉じこもったままで航海中はほとんど出て来なかったと言う。
海舟座談の木村喜毅の懐述に、勝さんは自分は日本に戻るからバッテーラ(脱出用の小船)を下ろせ!と騒ぎ一悶着起こした、その不満は身分据え置きによる不満が原因だと語っている。
勝先生も上司に不満をぶちまける事により少しは上層部が変わるだろうと思っていたと氷川清話で語っているのだが、同時に全く無駄な事であった事も少し後に悟ったと回想している。
ブルックは「大変小柄であるが、よく均整(きんせい。体の釣合)が取れ、たくましい身軽である。鋭い見透かすような目、鉤鼻、やや小さいあご。歯を合わせたまま話す。彼はなかなか活動的で、手すりの上に飛び上がったり、索具にのぼったりする。感じのよい顔立ちで、決して機嫌が悪いという事がない。彼は航海中ほとんど船酔いしていた」と観察していたようで、海舟の不満の真意が幕府旧弊によるものだとは気づいていなかったようだ。

まとめ
ここからの記述は完全に私感であり憶測です。
咸臨丸渡米により勝先生は太平洋横断という業績と、米国の文明文化に触れ、その後の行動や思想におおきな影響したのは間違いないだろう。
しかし、一方で「幕府にもうダメだ」という確信に近いものを感じたのではないだろうか。
危機にあっても最善を尽くす事より、身分・家格が優先される事を痛感した勝先生は、身分制度の壁が人事の硬直を生み、結果としてプロジェクト全体の硬直を生み出す。もし、幕府に刃向かう勢力との決戦であったならば考えると幕臣としては笑えない事実であっただろう。勿論、開祖家康公のような天才的主君が君臨していれば話は別である。
勝先生が帰還の折りに幕府お偉いさん方に呼ばれ米国の感想を聞かれたとき、
「米国と日本国ではそうは違いません、強いて言うなれば有能な物が上に政治を行うことでしょう、この点は我が国とまったく反対であります。」と痛烈な批判をしたらしい。
この話はの真偽はわからないが、勝先生の気持ちを時代を越えて代弁しているように思える。どちらにしても咸臨丸の一見で幕府内情を肌身で感じた危機感は、大久保一翁の説いた大政奉還論と融合し後の雄藩連合論という思想行動のバックボーンになった筈である。

余談 木村喜毅の子孫さんからのメール
もう一年以上前(もっと前かな?)に、自分の先祖は木村喜毅で、海舟庵を覗いたおりに先祖の事が好意的に書かれていたことに感動しましたという旨のメールをいただいた。(こういうページを開いていて一番嬉しいメールだ)
個人的には木村喜毅さんという人物は温厚な性格で非常に責任感の強い人だという印象が大きかったので、好意的な記述がうれしいという言葉が意外であった。つまり、必ずしも好意的にえがかれている人物では無いと受け取ることが出来る。
たしかに勝海舟が主人公であり英雄である筈という前提の物語では、木村喜毅という人物は大身旗本の子息で、育ちは勝先生とは正反対。
よき理解者であるというよりは、咸臨丸渡航においては頭の固い邪魔者的な上司、非道いときは無能な役を演じる場合もあるかもしれない。(そんなような本も読んだ記憶がする)
しかし、木村喜毅は家財のほとんど売って金を用意し、不測の事態に備えたり、福沢諭吉などの有能な人材を一時的に家来として同船させている。勝先生も木村喜毅の推薦によるところが大きいと言われているし、米国人水兵に協力を依頼したのも木村の働きが大きいと言われている。
自分よりも年上で、船の知識は遠く及ばず、そして天下一品の皮肉を言う勝先生相手に木村さんも相当苦労しただろう。
余談の余談だが、家財を売って用意した金はサンフランシスコの慈善団体に寄付したという。

  1852年(嘉永五年)
30歳/長男 小鹿誕生。妹 順子(16歳)、佐久間象山(42歳)と婚姻。

1853年(嘉永六年)
31歳/七月 幕府、海防に関する意見を広く募集、麟太郎も意見書を出す。

1854年(安政一年)
32歳/十二月 次男四郎誕生。

1855年(安政二年)
33歳/一月 下田取締掛手付として登用される。大久保一翁に随行し、伊勢・大阪の海岸巡察。 (四月に戻る)
七月 海軍伝習重立取扱
八月 小十人組に昇進
十月 長崎到着

1856年(安政三年)
34歳/三月 長崎講武所砲術師範役となる。
六月 大番へ昇進。

1857年(安政四年)
35歳/三月 第一次伝習終了となるが、海舟は残留。
六月 伝習の功で、金二枚を受ける。
八月 咸臨丸、長崎に到着
秋 ゴットル船で航海実習中に危うく遭難しかける。

1858年(安政五年)
36歳/二月 釜山沖まで航海。
三月 遠洋航海に際し薩摩へ、島津斉彬と面会する。
四月  斉彬の書面を受ける。

1859年(安政六年)
37歳/一月 朝暘丸にて江戸に戻る。軍艦操練所教授方頭取に就任。
七月 赤坂元氷川に転居。

1860年(万延一年)
38歳/一月十三日 咸臨丸品川を出航。同月十九日、浦賀より渡米航海に出航。
二月十六日 米 サンフランシスコへ到着。
三月十九日 帰路出航。
五月 江戸到着。

六月 蕃書調所頭取助 就任。
八月 三女 逸誕生。
十二月 渡米功労により金五枚を受ける。

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